大河内城址を後にして次に向かうは亀山城址
亀山城と言えば京都府にある亀山城を思い描く人が多いとは思うが丹波亀山城では無く伊勢亀山城です。この名前についての重大事件の言い伝えが...
同日の記事はコチラ
その①
その②
到着前のトラブル
大河内城址から走る事1時間ちょい、事前に調べておいた亀山城址の御城印の販売場所である亀山駅のロータリーにある亀山市観光協会亀山市産業観光案内所に到着。
しかしシャッターが閉まっています...。
この時、時間は15:50。
亀山城址の営業時間は16:30。
とにかく時間が無いので急いで亀山城址に愛車を走らせました。亀山城址に到着したのは16:00 。御城印も気になるけど先ずは亀山城址の攻城を優先させました。
駐車場は奥に大きな無料駐車場があり、閉園間際なのか車も少なく難なく駐車できました。
亀山城址
丹波亀山城の天守を解体するように幕府に命じられた堀尾忠晴が勘違いで伊勢亀山城の天守を取り壊してしまう重大事件があまりにも有名。その後、丹波亀山の方は亀岡と変更されたとの事です。
鎌倉時代の関実忠が築城した亀山古城が始まりであり、天正18年、岡本良勝が入城して天守、本丸、二の丸、三の丸などを造りあげた。江戸時代の初期には将軍の宿所として由緒正しい場所です。
その後、勘違いにより取り壊された天守に代わり天守台に多聞櫓が建築され、明治に入り城郭の大半が破却され、現在は天守台石垣、多聞櫓、外堀や土塁の一部が残るのみであり小さいながらも三重県唯一の城郭建築物です。
攻城
閉園間際であり駆け足の攻城です。
多聞櫓は桜が満開で美しく彩られていました。
平屋の多聞櫓は中に入ることができました。内部はパネルによる伊勢亀山城の説明と資料が数点。
石垣は江戸時代初期の物であり、当時のままの姿を残す貴重な石垣です。
敷地内には色々な建物などが移築されておりました。
大久保神官家棟門はこの地で神官を務めていた大久保家の門で、亀山西小学校の裏門として移築されていたのですが再び移築されております。
明治天皇行在所は明治天皇が三重県を巡幸の際に行在所とした建物であり、移築され城址内に残されています。
御城印のタイムリミット
亀山城の多聞櫓入り口に亀山城跡の御城印ありますの看板があったので、ホッとしながら受付のご老人に「御城印下さい」と伝えると亀山駅のロータリーにある観光協会での購入になりますとの返事...。
シャッターが閉まっていたと返事をすると...。ご老人困惑。
もう一軒の観光協会でも購入出来るとのご老人の返答に速電話をすると、どうやら亀山駅の観光協会は2月で閉鎖されていると...。そしてあと30分程で閉まるとの話し...。
急いで愛車で観光協会のある関駅まで走りました。
到着時間は16:50ギリギリセーフ (>o<")
何とか間に合いました。
でも、市の観光協会の申し送りはどうなっているんでしょう?先に亀山駅に寄って無かったら、知らずに亀山駅に向い御城印入手出来なかったでしょうね...。
まとめ
この日3軒目となる伊勢亀山城址。時間と御城印のドタバタで忙しく駆け足での攻城でした...。他にも見所はあったはずでしょうね。
二の丸跡や丹波亀山城と間違って壊されたという話しで有名な三重櫓跡なども見られませんでしたし...。
亀山城跡は本丸にあたり街の中にも沢山の遺構が残っているようでした。
またの機会にゆっくりと見せてもらいましょう。
この日は3軒の城址巡りでしたが、三重県の南部である鳥羽から北に位置する亀山とかなりの移動距離でしたが、それぞれの場所ごとに『現在の城跡としての姿』や『ほぼ当時のままの姿』『本丸のみ城址として残り街の中に溶け込んだ遺構』など、その場所、土地、市ならではの考えに違いがある事に気付いた今後の城巡りに対しての収穫とも言うべきものでした。